楽しく儚い、我が人生。

 

街にクリスマスソングが流れはじめるこの季節。

年始に“今年こそはリアルも充実させよう!”と意気込んでいたわたしだか、今年最後の一月を切ってもその目標は達成されないまま、来年へと引き継がれようとしている。

それと同時に“今年もヲタクゴトは充実していたなぁ”なんて幸せを感じることもあり、毎年この季節はヲタクとしての幸せと恋愛に対しての自分の不甲斐なさが混濁とした中、一年を振り返ることが多い。

今年一年、合コンとやらで遣ったお金であと何回コンサート入れたかななんていけないことを計算しているわたしはもうしばらくリア充とは疎遠であろうと自分でも確信している。


 

相変わらずわたしのフェイスブックは彼氏とディズニーやら、イルミネーションだとかでとても華やいでいて地底で生活するわたしには少し眩しいし、心が痛いし、羨ましい。

そんなダメージを受けることがわかっているにも関わらず、わたしはフェイスブックをやめることはない。

自分のフェイスブックのステータスに“交際中”の記載するのが近い未来のわたしの目標で、それまではリア充たちの攻撃にも負けずに戦い抜いていこうと意気込んでいる。

 

 

さて、 わたしは本当に物心ついたころからヲタクだった。

だから、この趣味を失ったらどういう風に生活していけばいいのか。もっというと社会とどう関わってどう息をしていくのかさえわからないような気がする。

しかし、ヲタクながらも四半世紀以上生きているわたしなので、何個かリア充を手に入れるチャンスは落ちていたはずだ。どこで拾い損ねたのだろう。

ヲタクになった当時を思い出し、そこから遡って自分を考察してみたいと思う。

 

(こちらはただの一個人のヲタクブログであり、先記事と同じくわたしと周囲10メートル以内のヲタクのことを参考に記事を書いています。あくまで個人の意見と体験であり、一つの例です。引き続き、誹謗、中傷はご遠慮ください。)

 

小学生時代

わたしがこの世界に足を踏み込んだのは小学生の時である。

たまたまテレビに出ていたアイドルがかっこよく、それを両親の前でなにげなくつぶやいたのがきっかけだったと思う。

ある日会社帰りの父が立ち寄った本屋で某アイドル誌をお土産に買ってきた。

それまでテレビでの姿しかわからなかった彼が、アイドル誌ではあんなことも、こんなことにも答えていた。テレビとは違った一面だった。

なんだか知らない彼のプライベートに触れたような気がして、胸が高鳴った。

世は一応平成という年号であったが、今のようにインターネットは普及していない。

そこまで男性アイドルに対して世間の注目もなかったように思える。

だからこそ、少ないページながら彼の情報を確実に手に入れられる媒体は雑誌がダントツにその役割をなしていたような気がする。

こうしてわたしは“りぼん”や“なかよし”と共に毎月アイドル誌を買うことに手を染め始めるのだ。

 

そして小学6年生のときに転機が訪れる。

毎年七夕の短冊に“アイドルに会いたい”と記す娘を不憫に思ったのか、母が初めてコンサートに連れて行ってくれた。

どうやって母がチケットを取れたのか記憶が曖昧なのだが、当時はファンクラブに入ってなくてもロッピーなんかでチケットが取れた気がする。

 

とにもかくにも、わたしは小学校時代の全てを捧げた彼に会うことができたのだ。

そのときの興奮と破裂しそうなほどの胸の鼓動は今でも忘れることができない。

 

初めてブラウン管や誌面越しではない、生のアイドルをみた。

本当に存在してた。実は心のどこかで彼はこの世に存在していることが信じられなかったわたしにとってこれは革命だった。

彼もわたしと一緒の臓器がある人間なんだ。

性別は違えど、大きな意味でまとめると同じ哺乳類で人類で、同じ地球上で同じように息して同じくご飯食べて生きているんだと思った。

ある意味この瞬間わたしは初めてアイドルと現実世界を結びつけることができた。

そして、同時にアイドルと自分の距離を知った。

ステージと客席という物理的な距離は幼いわたしにとってアイドルは触れてはいけない遠い遠い存在なんだということを改めて痛感させるものとなった。

 

中学時代

アイドルとの距離を知ったわたしだったが、落ち込むどころか開き直ってアイドルを応援することにした。相手はわたしのことは知らない、だったら思う存分だれにも気兼ねなく応援できると勘違いしていったのだ。机にアイドルとのアイアイ傘を書き、お手製のアイドルの下敷きを作って学校に持参し使っていた。そのうち担当も世間にだんだんと浸透し始め、“わたし=アイドルが好きな人”の方程式がクラス中、いや学年中に広まることとなる。

お恥ずかしい話だが、10年以上前に中学を卒業したのに、いまだに中学の友達にはこのヲタクイメージが強いらしく、会うたびにネタにされる。

“ほんと、大人になって現実に戻ってきてくれてよかったよ~”なんていわれるが、正確にはあのころとなにもかわっていない。むしろ自由に動かせるお金ができた分、余計にこじらせている。しかし友達の心底安心した顔をみると否定はできない。…でも肯定もしない。あえていわないことがわたしが彼女にできる最大の気遣いだと思う。

 

高校時代

なんとなく割りと華やかな高校に入学した。男女共に仲がよく、恋だの、愛だのに溢れる高校にきてしまった。…もちろんわたしも全く期待しなかったわけではない。

色気づいたわたしは、“ヲタクは辞めないけど、隠しつつ生活をする”という今のパターンに生活スタイルを変更した。常にヲタクというフィルター越しに自分を見られることになんだか違和感を感じたからだ。

そのほうがなにかと得もあるのではないかと自分なりに計算し、決めた結果だった。ま、それなりに弊害もあったのだが。

しかし、ここで転機がまた訪れる。

バックで踊る名前もわからないアイドルに心を奪われてしまい、幼いころからあんなに大好きだったアイドルから担降りしてしまうのである。

“彼の背が小さいのは顔に栄養がとられてしまったからだ!”なんて担当を盲目的愛し、応援し、認めたくないが人生で一番狂っていた。

 

 

丁度そのころ携帯が爆発的に普及。さらにパケポが登場し、気軽かつ迅速に情報が得られるようになった。

所謂、ヲタ友も作りやすくなり、活動にも拍車がかかり、趣味を語って共感してくれる人の数が急激に増えた。ブログやメルマガが流行、ヲタクたちの情報の主な収集源となりヲタク市場を潤す。これに乗らない手はないといわんばかりにバイトのお金を全てヲタクに費やした。わき目も振らず、ヲタク生活に全てを注いだ。

 

一方で現実のほうでも同級生のあの人がイケメンだとか、好きだとかできゃーきゃー騒いでいた。サッカーする姿を放課後教室の窓からのぞいたり、渡り廊下で話しかけられたとか、席が隣になったとかで一般的なときめきも手にいれていたような気がする。

しかし“彼に告白しないの?”と友達に言われたとき、なにか基本が違うと思った。

彼はアイドルではないが、わたし的にはアイドルを好きだというような気持ちで好きだといっているのだ。ミーハーな気持ちで彼のファンになっているだけなのだ、と。

このあたりからわたしは周りの子が言う“好き”という気持ちと自分は思う“好き”が全くの別ものだということに薄々気がつき始める。

随分現実と離れたところに来ちゃったななんて暢気に思いながらも、このときのわたしはこのことが後々招く大変さにまったく気づいていなかったのである。

 

大学時代

高校生のときのわたしは、大学生になったら普通にオレンジデイズみたいな生活ができると思っていた。大きな段々になっている教室で男女が楽しそうに勉強に恋に明け暮れる日々が待っていると…。

しかしわたしはうっかり女子大に進学してしまった。

わたしの思い描いていたオレンジデイズははかなく消え、同じ敷地内にあった共学の校舎から楽しそうに出てくるカップルを指を咥えてバルコニーからみている生活に突入した。

その一方で高校時代より時間の融通が利くようになったわたしのヲタク活動はさらに深刻化していった。都内の大学に進出したこともあり、フットワーク軽く活動できる定期と共に活動できるヲタク友達を手に入れた。

大学時代は常にヲタクのことしか考えてなかった。いや考えられなかった。

全てをヲタク中心でまわし、ヲタ費用を捻出するため身を粉にして働いた。

バイトのシフトが1ヶ月前まで提出だったのでヲタクゴト以外はバイトをできるだけいれるようにシフトを組んでいた。

よって、飲み会などにも気軽に参加できず、恋の波にも乗り遅れた。

このころから段々と自分がリア充になることの難しさを痛感してくるようになる。

 

社会人になりまして

 

大学生のときのわたしは会社に入ったら普通にホタルノヒカリみたいな生活ができると思っていた。就職すれば勝手にマコトくんやぶちょおがついてくるのだと信じていた。

 

しかしわたしはうっかりお堅い職場に入社してしまった。

 

小さな支店に配属されたわたしに出会いなどはなく、ただ必死に毎日を過ごしていた。

…いや、違う。出会いなどないと決め付けていたのは自分だけだった。

同じ支店に配属された同期同士が結婚した。同じスタートラインで同じ環境で同じ仕事をしていた同期が結婚した。衝撃だった。わたしには浮いた話の一つもないのに。

そのころのわたしは仕事のなかにヲタク時間をいかに組み込むかということに必死になっていた。一番削れるのは睡眠だったので毎日夜更かしをし、朝起きるということがかなりの苦痛になってきていた。

もはや朝起きてからいかに俊敏に支度を済ませ、家をでるかに命を懸けていた。

当時長かった髪も朝からアイロンで整えることが難いという理由で、ショートにした。すっぴんめがねで出社したことも一度や二度ではないし、とにかく、とにかく女を捨てていた。

これはヲタクのせいではなく、明らかに自分の堕落した生活のせいだということに気づいたときわたしは泣いた。彼氏や旦那うんぬん以前の問題で、まず日常生活もまともに送れないようなわたしがヲタクであることが許されるのだろうかと本気になって考えた。

それからわたしは少し現実を見るということの重要性を認識し始めた。

でもヲタクは辞められない。

会社で怒られても、友達といやなことがあってもアイドルはわたしの全てを受け入れ癒してくれる。わたしにとってアイドルはそういうかけがえのないツールなのである。

 

 

 

 

わたしは異性との距離間がいまだにうまくつかめない。

アイドルはあらかじめ距離の設定が決まっているからそこまでは自己調節ができるけど、現実世界になるといっきにどうしていいのかわからなくなる。

相手の懐に入っていいものか、それともいけないのか。

自分の懐にはどの程度相手が入ってくるのか。

仲良くなればなるほどそれがわからなくてもやもやしているうちにチャンスを掴み損ねる。

歳を重ねてるからこそ今更?と思われるようなこともわたしにとっては今更でなく一大事件だ。

 

初めから友達だと認識した異性には懐くのに、本命には話しかけることすらできない。

コンサートにはあんなにかわいい格好で挑むのに合コンでは気恥ずかしくてスカートすら履けない。

アラサーになってからも周りの男友達に“ウブだ、ウブだ”とからかわれ続けるわたしは自分でもこの件に関しては良い打開策が見つからず、樹海をさまよっている感が否めない。

早く脱出しなければ、その先はない。

 

学生のころ理想のタイプを聞かれると、“白くて細くて長くてメガネが似合う人”と豪語していたわたしだが、いつのまにかそれは“優しい人”になり、さらに“ちゃんと働いている人”に変わった。最近では“犯罪を犯してない人”としかいえなくなったわたしは自分の限界を悟ったのだと思う。

 

今はたくさんあるかもしれない合コンだが、合コンは決して無限ではない。

友達が付き合った、結婚したうんぬんで確実にメンバーも減る。

幹事をしてくれていた子もいずれは結婚し、合コンは開催されなくなってゆく。

いくつものチャンスを掴み損ねたわたしだから言えることだが、確実に世間の目はだんだん冷たくなっていく。

逃げようとしても現実は猛スピードで追いかけてくる。

アラサーの体力ではすぐに追いつかれる。現実からは逃れられない。

 感じたくないけどこれは紛れもない事実だ。

 

アイドルを好きになって後悔したことはない。

むしろなにもなかったかもしれないわたしの人生に甘辛いスパイスを加えてくれたということに感謝している。後悔しているのはうまく自分の私生活を組み立てることができなかった自分自身にだ。

もちろんアイドルはヲタクの人生に責任はとってくれない。

 

アイドルを好きになったころの自分はこの歳になってもアイドルを追っかけているなんて想像もしていないだろう。

 

 ヲタクとリア充は必ずしも表裏一体ではない。

現実に両立している人がたくさんいることも知っている。

わざわざ“普通の女の子の戻ります”とペンライトを置いて引退する必要もない。

両方手に入れることが不可能でないからこそ、わたしは欲張りにリア充も手に入れたいと最近ようやく思えるようになった。

 

そのわがままを叶えるためには、もっと努力と根性が必要だと思うのだが、すでにわたしの脳内は年末年始のヲタク活動でいっぱいなのであった……。

来年こそは頑張ろう……。孤独死だけはしたくない……。 

 

 

ヲタクとリア充の狭間にて。

 

ヲタクだから彼氏がいないのか。

はたまた彼氏がいないからヲタクなのか。

 

このいたちごっこな疑問を抱えて早20年弱。

根っからのヲタク気質なわたしは、小さいころからジャンルや次元に関わらずあるとあらゆる『ヲタクな趣味』足をつっこみ青春と財力の全てを費やしてきた。

その結果、10代のころ、同級生の甘ずっぱい恋バナをファミレスで長時間ドリンクバー片手に聞き役に徹したわたしは20代のなった今でも場所を居酒屋、飲み物をお酒に持ち替えただけで、相変わらず恋愛ネタに関しては聞き役のポジションを守り続けている。

 

好きだった人がいなかったわけではない。

浮いた話のひとつやふたつあったような気もするが、記憶にほとんどない。

あるのはヲタクの楽しい栄光の日々。

 

しかし、このままじゃいけない。

わたしはもはやいるだけでちやほやされたであろう世代をとうに飛び越え、所謂アラサー世代に突入。

フェイスブックで同級生たちはやれ結婚、やれ出産。

なかには結婚、出産、離婚と大体人生の全てを一周経験しつくした強者もあらわれ、リア充という人生最重要項目にエントリーさえしてない自分に焦りを感じている。

 

ヲタクだからいけないのか…?と思う自分もいるが、それは結局のところ言い訳にすぎないというのはわかっている。

なぜなら、わたしはいわゆる『隠れヲタク』。

 

相当仲良しかつ、趣味を理解してくれるであろう人間にしか、自分がヲタクであることをばらしていないからだ。

 

そうだ、違う、ヲタクだからじゃなく、長年『ヲタク』だったからこそ知らずのうちににじみ出る弊害によって気づかないうちに現実世界での幸せを遠ざけているのではないだろうか?

 

自分を見直すためにここで、いくつかヲタクとリア充における見解の違いとそれにより起こる弊害、ヲタ生活に蔓延る問題点をまとめてみようと思う。

 

(全て、わたしの独断と偏見によるものです。わたしの周囲約10メートル以内にいるヲタクたちを参考にしたあくまでもひとつの見解であり、個人の容姿、ヲタクの守備範囲、その他もろもろは関係なく大きな意味でのヲタクを指して解析しています。よって批判、中傷などは受け付けません。)

 

 

1、ヲタクはイケメン好きとは限らない

 

ヲタクはイケメン好き…理想が高い…と勝手に理解されることがある。(特にアイドルヲタ)。

顔が好きで、顔が好きで、顔が好きなんだからファンなんでしょって。

まず、それが大きな間違いなのである。

 

ジャニーズ式にここでは好きなアイドルを『担当』と表す。担当を好きになるのはなにも顔だけじゃないのだ。一般の人が恋をするように長年時間をかけて、彼らの好きなことろをひとつずつ見つけ、増やし、最終的にもっと好きになる…最初は顔で入ったのかも知れないが、だんだんとその人の人間性にも惹かれていくのがアイドルヲタ極みであり楽しみだとわたしは考える。

それゆえに、同じグループの違う人を好きになったり、もっというと後輩グループや先輩グループ、似た系統の事務所に鞍替えすることも起こりうる(担降り)。

 

アイドルを長く好きでい続けるためには顔以外に尊敬できる部分があったり、人間性にも惚れ込まなければ難しいのだ。

 

 

なので、一概に全員が全員イケメン好きとは限らない。

むしろ現実世界ではイケメンが苦手な人のが多いのではないだろうか?

イケメンのファンになることは得意であり、ミーハーな気持ちなら異性とも仲良くできるけど、好きの矛先をこっちに向けられると困る。どうしていいかわからない。

なぜならヲタクとしての自分はアイドルに好きは飛ばすけど、飛ばされることにはなれていないからだ。

イケメンからの好き攻撃をまともにくらったら簡単に自分が自分じゃなくなる怖さをだれよりもヲタクはわかっている。だからこそ、迂闊にリア恋に踏み切れない部分がある。

 

イケメンは見るものであって関わるなんておこがましい!

とわたしは密かに心の中で自分にストップをかけている。

ファンになることには抵抗がないけど、彼氏という自分と同等の存在になるということを極端に恐れてしまう。だから、イケメンじゃなく、フツーの人でいい。フツーの。

好きなアイドル=好きになる人じゃ決してない。

そして好きなアイドル=理想のタイプとは必ずしも限らない。

(ちなみにわたしの担当は背が小さいが、わたしは常日頃から背の高い人と結婚しようと心に決めている。)

 

ヲタクのいう

『担当と結婚したい~』は

『今まじ担当への愛が最高潮に高まって結婚という人生最上級の幸せに匹敵するくらい脳内がお花畑だよ!』の略だし、

『担当が彼氏だったらな~』は

『この世のメンズが全て担当だったら一人ぐらいわたしと付き合ってくれるかもしれないけど、そうじゃないから現実世界でわたしを幸せにしてくれるようなわたしだけの担当がいればな~』の略でしかない。 

現実と趣味は別だってわかってるって!!!!!

 

と大きな声で非ヲタの全人類に向かって叫びたい。

 

 

 

 

2、現実とヲタク世界のギャップ

 

妄想が得意なのは持って生まれたわたしの才能である。

よって、その無駄に鍛えられた妄想力のおかげで現実とのギャップに耐え切れず現実から逃げ出し、ヲタク世界に閉じこもったことも一度や二度ではない。

 

アイドルは好きになるのも嫌いになるのも自由。

滅多なことがなきゃ、アイドルから嫌われて傷つくこともない

楽しいことだけ考えてられる。

 

ヲタクとリア充で一番違うのが傷つくということがないことではないか。

確かに好きなアイドルが結婚した、引退したとかで傷つくこともあるだろう。

でもそれは『アイドルだって…』で割りきれる。

現実世界の彼じゃなく、アイドルとしての彼を好きだといい聞かせることもできる。

それでも許せなきゃ、ただ自分がヲタクを辞めるだけ。

 ヲタクで傷ついても逃げ道がある。

 

所詮ヲタクとアイドルなんだをいう見えない固定観念の薄いバリアで覆われた世界にいる限り、肉体的にも精神的にも深く傷つくことはない。

 

しかし、現実世界ではそうはいかない。

 

ヲタクは少し現実世界で傷つくと、アイドルに癒しを求める。

ヲタ友も我々の元の世界への帰還を手放しで喜んでくれるだろう。

アイドルに癒され、それによりもっとアイドルを好きになる→結局ヲタクの世界にカムバック。

ここ数十年ヲタクと現実をさまようわたしがいうのだからあながち間違いじゃないと思う。

少なくともわたしにとってヲタク世界とはもっとも居心地がよく、何度も何度も帰ってきたくなる場所なのである。

 

 

 

 3、常に先に決まるスケジュール

 

リア友と遊ぶスケジュールを組む際、自分コンサートやイベントのスケジュールのせいでなかなか決まらないことはないだろうか?大体ヲタクゴトのスケジュールって数ヶ月前…早いものでは半年以上前に予定が決まるものもある。

それに向けてヲタクたちは同行者を募り、チケット争奪戦を勝ち抜き、交通手段を手配し、遠征にいたっては当日の宿泊場所を考え…

とにかくたくさんの労力を使ってこの日に向けて準備している。当たり前だがコンサートの日にちをずらすことはできない。

 

そこにたまたまリア充な予定が入ったとしよう。

あなたはどっちを選びますか?

 

…当たり前にヲタクゴトだろう。

リア充な生活をおろそかにしているわけではない。

だって、先に約束したほうの予定優先するのが当たり前でしょ!

数ヶ月前から決まってるし、すでにたくさんの労力費やしてる。

これは当たり前の選択といえよう。 

しかし正直にコンサートというとこっちの世界を理解してくれていない人はただ、ただ、わたしの行動に呆れるだけ。(“またコンサート?(笑)”がデフォルト。)

 

確かに友達ならいつでも会えるっていう甘えも少しはあると思う。

でもそのくらいは許してほしい。

だってアイドルヲタはその日逃すといつ担当に会えるかわからないリスクを常に背負ってるんだからっ!

 

こうして、だんだんリア充と疎遠になっていくわたしである……。

 

 

4、趣味を堂々と語りにくい

 

今更ですが、わたしはヲタクということに誇りをもっている。

コンサートでのわたしは生きている中で一番輝いているし、一番かわいいと思う…

しかしながら合コンなどで男の子から大体聞かれるこの質問

 

『趣味はなんですか?』

 

に正直に堂々とヲタク趣味を答えることができない。なぜなら相手に引かれることがわかっているのにわざわざに口にするほどバカな女じゃないからだ。

 

『趣味はアイドルを追っかけることですね。コンサートは地方、海外含めていけるところは全部行って、テレビの観覧にも行きます!家にいるときはHDDや雑誌の整理してます。友達とカラオケに行くときはヲタ曲歌うんで、歌詞はもちろん、振り付けも完璧ですよ☆通勤時間はTwitterみて情報収集したり、画像集めたりしてます!』

 

なーんて本当のこといったらその場がしらける。一緒にいった友達にも迷惑がかかる。

そこはいい大人だから『DVD鑑賞と音楽鑑賞』ってありきたりな趣味を投下する。

あながち遠すぎる嘘でもないし。

でもそれ以上つっこまれた場合困る。

『どんなジャンルの音楽聞くの?』って。

 

もちろんヲタクだから曖昧にしか答えられない。

ここでかっこつけてミスチル!なんて答えて相手がミスチルファンだったりしたりしたら手に負えなくなる。

 

これを聞かれたらわたしはいつも

『割と洋楽聞くかなー』って。←

 

洋楽なら幅広いし大体つっこまれない。きっと大丈夫(笑)

友達のみなさん、わたしがこの言葉をいっていたらピンチだって察してくれ!

 

 

ここでわたしは考えた。

趣味は趣味でも人に言える趣味といいにくい趣味の違いってなんだろうと。

それって深く考えると、その趣味に関してヲタク以外の人同士でも盛り上がれるか盛り上がれないかの違いなんじゃないかと。

 

たとえばスポーツ観戦。

『わたしサッカー好きなんです』っていった場合、サッカーを全く知らない相手でも“サッカーがどんなスポーツであるか”大体想像できる。

Jリーグどこのチームのどこのポジションやってる●●選手まではわからないかもしれないが、日本代表のホンダやウッチーなんかはわかるかもしれない。

 

つまり、この趣味は話し相手にとってもいろんな方向に引き出しがある話題なのである。

 

しかし、一方でアイドルグループを語ろうとすると

知名度にも関係するかも知れないが、大体グループにいる人の名前さえうる覚えであることが多い。

ドラマなどで使われた歌じゃないとわからない(おそらくサビだけ)。

しかもアイドル好きだと自分でいう人はかなりコアだと最初から相手に構えられるため、ただでさえ少ない会話の引き出しをこちらが必死で引き出そうとしても相手が力ずくで引き出しをあけさせないように押し戻している感が否めない。

 

趣味に関しては手っ取り早く一点だけを集中的に深く掘り下げていくドリル女子より、すぐに深くは掘れないけど、じわじわ広い範囲を掘ることができるショベルカー女子のほうが、この世知辛いリア充世界を生き抜いていけるのだ。

 

一般世界と共有できる会話のトンネルを掘ることが、わたしたちヲタク女子に必要なスキルだとわたしは思う。

 

 

 5、現実の幸せに疎すぎる

 

ヲタクとは常に小さな幸せを大切に大切に拾い集め、大きな幸せに変えていくプロフェッショナルな人類だと思う。

“目があった”だけでも今世紀最大の幸せ!とばかりに飛び上がり、涙する。自分が直接得た幸せだけではない。アイドルが得た幸せさえも自分のことのように共有できるありがたい設備がヲタクの脳にはあらかじめ装備されているのだ。

ヲタゴトの幸せにはこんなに敏感なわたしたちだが、振り返ってみよう。

過去に落ちていたリア充な幸せはうまく拾えてきているだろうか?

 

そう考えてみると、わたしの答えはNO。

ヲタク世界に長年いるあまり、現実世界の幸せを掴むことが億劫になっている。

今でも十分幸せ…と自分に言い聞かせ、現実世界で幸せを掴む一歩を踏みだすことを拒んでいる自分がいる。つまりは自分に自信がないからだ。

 

ヲタク世界では自分がアイドルの視界にはいることなんてごくまれ。

自分は見つめるだけ見つめることができるけど、相手に自分は認識されない。

認識されても相手の記憶にはよっぽどのことがないと残らないことだって頭のどこかで理解している。

だから堂々と相手を好きなこと公言できるし、愛を伝えても恥ずかしくない。

むしろ、愛を伝えることがアイドルヲタクたちのたった一つの使命であり、仕事である。

それはCDやDVD、出版物の売り上げだったり、コンサートの集客人数であったりに反映されている。

 

しかし、一方で現実世界では、相手の視界に自分が入る。

アイドルはヲタクを選べないが、好きな男の子はもちろん自分以外の女の子を選ぶことができる。とりたて美人でもなく、気立てがいいわけでもないわたしはいつ彼の選考から自分がもれるか、いつだってひやひやしていなくてはならない。そんな生活がしばらく続くと、小心者のわたしは相手からなにも言われていないのに勝手にドロップアウトしてしまう。

この根性のなさが、わたしがいまだに幸せをつかめない大きな原因の一つであると言えよう。

 

ヲタク界では素直に小さな幸せでも受け入れることができるのに、現実世界での幸せを“こんなにわたしが幸せなわけがない!”と拒んでいる自分がいる。

 

現実世界での幸せを素直に受け入れることができたら、それは現実世界で幸せを手に入れる第一歩なのかもしれない。

 

  

 

 

ここまでヲタクが恋することで起こる弊害や問題点についていろいろ書いてきたが、リア充という現実世界にばら撒かれた種に花を咲かすか、根元から腐らせるかは本人の力量次第であることはいうまでもない。

ヲタクという基盤の上で生活している以上、わたしたちが幸せを掴むためにはまわりにいる人たちよりも数倍の努力と根性が必要なのだとわたしは思う。(ただ、ヲタクに費やす情熱をほんの少し恋やら愛やらに向ければいいだけの話だが…)

 

昨今、自民党でも“婚活・街コン推進議連”なんていうのが発足し、もはや日本は国を挙げてわたしたちの結婚を応援してくれている。

その期待にこたえるべく、

恋せよ、ヲタク女子!